⇒顕彰会会報寄稿
 寄稿
 
  菅茶山顕彰会会報29号掲載
            お気に入りの散歩道 ~近世山陽道を歩く~

                   
 夕暮れどき、妻と散歩に出かけるのが日課である。特に、お気に入りは、近世山陽道が高屋川の土手を通る辺りで、夕焼けが綺麗な時は最高の気分になる。

   まずは、国道313を北に歩く。高屋川に架かる髙淵橋を渡るとすぐに、西から来た山陽道と合流して堂々川の「長土手」といわれた道が真っ直ぐ北に向かって延びている。
 
正面の山は御領古墳群、八丈岩、砂留で有名な御領の山並みが広がり、正面の山裾には備後国分寺がある。右手側には「御領遺跡」が広がり、弥生人が環濠集落を造り、稲を栽培していたことが知られている。

小学生の頃、通学路だった長土手には奇怪な姿の「艮(うしとら)松」(樹齢500年?)がそそり立ち、「首つり松」「化け物が出る」と云われ、夕暮れ時に通るのが怖かった記憶がある。残念だが、今はない。
 
 菅茶山作の青い松に白い鶴が眠るという詩は、素人判りする綺麗なポエムだと思う。

  松高白鶴眠(後編巻八)   菅茶山
 蒼松白鶴競仙姿 
 日々喜聲無断時
 怪底今朝聴未得 
 仰看眠在最高枝

   国道を左折して堂々川の髙淵橋を渡り、山陽道を神辺宿に向かって歩く。まず髙淵の地蔵様が川を背にぽつんと立っている。昭和の河川改修前は道と川の間に民家があり、地蔵様もその傍にあったはずで、今はひとり寂し気に見える。髙淵のいわれは知らないが、川の曲がり角で、しかも井手(堰)があるので、いつも深い淵になっている。

 髙淵は、江戸後期の「神辺十景絵皿」の一つ「天井堤」という名所として、岩谷焼の絵皿には菅茶山の弟子たちの漢詩や和歌が残されている。
鈴鹿秀満の和歌「髙ふちの つゝみのくさも かけろうふの もゆる春へは のとけかりけり」は、ほのぼのとして良い。

 当会代表理事高橋孝一氏が情報誌「かんなべ浪漫」に書かれたコラム欄によると、明治大正時代の「神辺八景」を詠んだ日枝神社奉納扁額には、「髙淵の帰帆」の歌があり、「この辺りが潟湖(穴の海)の東端で一番深いところで、帰帆の舟がたむろしている懐古の情景が詠まれていたようです。」と書いてある。
 昔は井原を流れる芳井川の分水も流れ込む水量豊かな川だったそうで、川舟がこの辺りまで上って不思議はなくその昔は穴の海だったかと想う楽しくなる。
 
 そこから橋本橋までの風景は、いつ歩いても素晴らしい。川の流れの先には黄葉山と古城山に続き廉塾の樹々があり、遠くに山手郷分の山々が見える。
 晩秋の夕方は、遠くの山に沈む夕日と照らされた黄葉山系の黄葉と陰影が美しく、茶山先生や葛原先生が眺めた景色をご相伴する気持ちになる。
 杉原耕治『忘れられた街道をたずねて』では、「高屋川の高い土手から、緑に染まる神辺平野の東西南北を、もう一度ゆっくりと見詰め直す。一見どこにもありそうだが、なんと穏やかで優しい風景なのであろう。」と書いている。誇らしい場所だと思う。

 右手の坂本デニムのある辺りは竹継という地名だが、戦国時代の杉原盛重家臣竹継次郎左衛門の「はいから水」の話が残っている。
左手の川中に一本の栴檀の木が枝を広げている。きっと廉塾から種が飛んできたのであろう。何時かは水路の邪魔者として切られる運命にあり、可哀想な複雑な気持ちになる。この木は町内のあちこちに自生しており、ふっと茶山先生の学種を連想してしまう。

 対岸は、子供の頃には「水越」という土手が低くなった箇所があって、子どもでも簡単に川に入ることができた。
そこから髙淵の堰までは私の漁場で、ドンコ、アカマツ(ハヤ)や泥鰌を手掴みした感触が懐かしい。水越とは、福山城下町を洪水から守るため、大増水した川水を田畑に流しプールする仕組みで芦田川系の各地にあったそうである。

 やがて橋本橋に至る。『福山志料』には、この橋は「砂橋」といい長さ八間二尺、幅二間あり、土橋が板橋になり、安永二年(1771)には石橋に架け替えられたと記してある。橋が砂・土・板・石と変化しているのが面白い。
 71歳の茶山先生が「大和行日記」の旅に出かける時の心境を詠んだ詩はここが舞台である。

  平野橋示送者 菅 茶山
 閑行本自往来軽  閑行本自ら往来軽し
 不似前遊厳路程  前遊の路程を厳しくするに似ず
 唯為衰躬重離別  唯 衰躬の離別を重んずるが為に
 出門己有異郷情  門を出でて己に望郷の情あり

 橋を下り南行すると古市に入る。廉塾まではあと僅かである。その集落の手前に三叉路があり、旧道「笠岡道」が始まる。
昔はそこに「みぎかさおか ひだりいずえ」と刻んだ石柱があったが、その行方は知らない。
 今は新道があるので人通りはないが、約一間幅の用水に沿ったこの道を、茶山先生は竹田へホタルを観に出かけたり、坪生・笠岡経由で鴨方に行き、西山拙齋を訪ねたりした筈である。
この道に入ると、散歩は終りになる。

 自然と歴史が豊かで、茶山先生の遺芳が随所に感じられるこの土地に、夫婦ともども暮らせることは幸せなことと思っている。  おわり
                                              作者 藤田 卓三

 参考文献
  『御野村郷土史』 土肥政長著 
  『菅茶山とゆかりの人々』 菅茶山記念館刊